◇愛のエンブレム◇ 12

NIHIL TAM DVRVM ET FERREVM, QVOD NON AMORIS
TELIS PERFRINGATVR.
Defendit Parthi celeres lorica sagittas,
Ferreus vmbo aciem ferri inhibere valet;
At nihil à telis pharetrati munit Amoris
Quem ferit hic volucri cuspide, transadigit.
Tibull. contra quis ferat arma Deos?
アモルの矢が貫通できないほど、頑丈に固くできているものはない。
甲冑により、パルティア人✒の放つ素早い矢を防御でき、
鉄製の盾により、鉄剣の切っ先から守られる。
けれど、何をもってしても、アモルが矢筒から抜いて放つ矢にはかなわない。
アモルは快速の矢じりを命中させて、ぐさりと射抜くのだ。
ティブッルス✒ 誰が神々に逆らって武器を取れようか。
なにものも愛には勝てない。
鉄も鋼鉄も愛の力の防壁とはなりえるわけがない。
小さな射手の放つ矢は、射手の思いのままに射抜き、
マルス神✒の威力をもっても逆らえない。
こうして愛によって、全世界は征服され、白旗をあげる。
❁図絵❁
木の枝にかけた鉄製の胸当てにアモルが矢を打ち込んでいる。すでに矢は二本、貫通している。また木の根元に置いてあるヘルメット付き鎧にも、アモルの放った矢が貫通している。この木はおそらく樫(堅固の象徴)で、アモルの斜め右奥に立っている樹は似ていないが月桂樹(勝利の象徴)と思われる。
❁参考図❁

ジョヴァンニ・バリオーネ (Giovanni Baglione)「聖愛と俗愛」1602-03年
鎧に身を固めた天使が、裸のアモルを追い詰めて倒し、右手にもった大きな矢をアモルに突き刺そうとしている。アモルは天使の力に圧倒され、恐怖でいっぱい、その左手に持ったか細い弓矢は天使の鎧にはまったく歯が立たないように見える。このように公式には、聖愛(主なる神への愛)が俗愛(肉体関係を伴う異性への愛)に対して圧倒的な優位に立つが、この画中の天使のはだけた側腕やその怪しげともいえる顔立ち、そしてアモル神がまるで陵辱される女性のように裸姿で横たわっていることが暗示するように、聖愛の優位はそれほど自明のものではなかった。
〖典拠:銘題・解説詩〗
典拠不記載:参照 聖アウグスティーヌス✒「どんなに頑丈なものであっても、愛の火には勝てない」(『カトリック教会の道徳について』22章)。
典拠不記載: ティブッルス:『エレギーア』✒1巻6歌30行。詩人にはデーリアという多感な恋人がいる。しかしこの女性は既婚で夫がいた。この第6歌では、この夫にたいして、詩人は自分がデーリアに対してどのような行為に及んでいたかを述べ、この行ではデーリアに酒を飲ませて酔わせ、自分は水を飲んでしらふのままでいて、ことを遂げたことを告白している。その行為は夫を侮辱しようとしてではなく、アモル神に命じられてやったことだという。そしてここの引用文になり、アモルに限らず神が命じられたことに人間は逆らえないとたたみかける。
〖注解・比較〗
パルティア人:パルティアは、メソポタミアのクテシフォンを中心に築かれた国。パルティアの組織化された軽装騎兵は、すばやく退却しながら、矢を射て相手を攻撃することで有名。ローマは共和制末期から帝政期を通じて、この巨大王国にしばしば干渉したが、きわめて手こずった。それは、パルティアの軽走騎兵が、ローマの重装歩兵に対して、その機動力を十分に発揮したことが一因である。「兵士はパルティア人の放つ矢とその素早い撤退を恐れる」(ホラーティウス[➽21番]『歌章』2巻13歌17-18行[➽116番])。なお胸壁は、胸の高さまで石や土で積みあげた急場の防御陣地。
いぼ:「槍を投げつけたが、たちまち青銅の盾にこーんと音を立てて跳ね返り、盾のど真ん中のいぼから空しく垂れ下がる」(ウェルギリウス[➽3番]『アエネーイス』2巻545-546行)。
ティブッルス:〔前54年頃-前19年頃〕ローマ帝国初期の詩人。富豪メッサーラに庇護されたということ以外にはその素性はあまりわかっていない。彼の『エレギーア』(下段参照)は、ルネッサンス・バロック期においては、恋愛詩とはどういう内容をどのようなトーンで書くかのかについて参照すべき範例となった。
マルス神:軍神でその性格は荒々しい。この軍神は、愛の女神ウェヌスによって深く愛された。なおマルスとウェヌスの恋は、16-17世紀においては、争いが愛によって制覇される寓意あるいは戦争を制止する愛の寓意として捉えられた。
聖アウグスティーヌス:〔354年-430年〕キリスト教の初期教父で、中世から17世紀に至るまでもっとも深い影響を与えた著述家。自己の改宗の経緯とその後の内省をつづった『告白』、異教を反駁しキリスト教の正当性を論じた『神の国』が有名。この聖人による愛の教説は、人間は、原罪を背負っているがゆえに、神以外のものをそれ自体として愛してしまうことが出発点になっている。そして最終地点として、神の子キリストによる受肉と贖罪は神の愛の発露の一端であり、人間を神への愛へと強く導いてくれるのだから、神への愛にとどまるべきであると説く。
『エレギーア』:遊び好きな女を恋する詩人ティブッルスが、その恋愛の成り行きを主として歌っている。また同性への恋、為政者や田園生活への賛辞なども題材になっている。詩集全体としては、大人の恋の駆け引きが、覇者ローマ帝国の活気ある当時の世相を踏まえつつ、ギリシア・ローマに伝わる神話などの故事に言及して歌われている。その語り口には憂愁と自己憐憫が漂っている。全4巻36歌から成っているが、最初の2巻の16歌のみが詩人の作品で、後は彼の文学仲間の作品と考えられている。なおエレギーアは、長短短格六脚韻と長短短格五脚韻で各行を繰り返していく詩形。この詩形は、酒宴、恋、賛辞、哀悼の場面などで用いられた。
矢:「世間の 術なきものは 年月は 流るる如し……大夫の 男子さびすと 剣太刀 腰に取り佩き 猟弓を 手握り持て…… 遊びあるきし 世間や 常にありける 少女らが さ寝す板戸を 押し開き い辿りよりて 真玉手の 玉手さし交へ さ寝し夜の 幾許もあらねば」(『万葉集』 山上憶良 巻第5 804)。「この世の術なきものは、年月の流るるごときことである。……りっぱな男子が男らしく剣太刀を腰におび、弓矢を手に握り持って、……遊びまわった世の中はいつまでも変わらなかったろうか。若い女の寝ている家の戸を押しひらき、傍にさぐり寄っては真玉のような白い腕をかわして寝た夜とてどれほどもなく」(中西進 訳)過ぎ去る。矢にしても太刀にしても、それは若さの象徴であり、若さの盛りには女性への欲望がみなぎっている。実際に、女性の美しい腕を自分の腕にからめて寝る。とはいえ、そういう若さも時の流れには勝てず、やがて老いる。愛も、若さと同様に、無常の前には勝ち目がない。
