◇愛のエンブレム◇ 26

AMORIS VMBRA INVIDIA.
Gestit ouans Amor, & de re sibi plaudit amata;
Nescius inuidiam se, velut vmbra, sequi.
Hoc habet omnis Amor, vt apertum liuor adurat,
Tutus ab inuidia cùm sit opertus Amor.
嫉妬✒は愛の影
アモルは自分が愛されていることに喜んで、雀躍し、羽を鳴らす。
嫉妬がちょうど影のように後についてくることを知らないのだ。
愛が人目につくと、嫉妬によって焦がされるが、愛が隠れていると
嫉妬からは安全-愛とはいつもこういうものなのだ。
嫉妬は愛の影
太陽が照りつければ、それだけ影は暗くなる。
愛があらわれれば、それだけ嫉妬も見えてくる。
それは嫉妬がいつも愛の影だからで、
暗い秘密のなかにいる愛こそが、この上なく安全なのだ。
❁図絵❁
アモルは肩に弓をのせて、、羽をいっぱいに広げ、うっとりと楽しげに物思いにふけっている。ところが地面に映っているアモルの影は、アモルその人のとは異なって、頭髪は蛇、両手にも蛇を握った、乳房のたれた老婆になっている。嫉妬が蛇や老婆に関係は次の名句を参照。オウィディウス[➽世番]「臆病な不徳の嫉妬は高邁な振る舞いへとつながらず、地面の一番低いところを隠れて這い進む」(『黒海からの手紙』3巻第3書簡101行[➽16番])。
❁参考図❁

ブロンツィーノ (Bronzino)「ウェヌス女神とアモル神の寓意」1545年頃
ウェヌスとアモルはキスなどをして愛を楽しみ、そこには今まさに快楽のバラが降りそそがれようとしている。ところがアモルの背中の横には、髪をかきむしり叫び声を上げている嫉妬の姿が見える。愛には喜びと共に嫉妬、そして欺瞞が伴うものだという教訓がこの絵には込められていると考えられている。
〖典拠:銘題・解説詩〗
典拠不記載:参照「嫉妬か愛にかられて、身もだえ眠れないだろう」(ホラーティウス[➽21番]『書簡詩』✒1巻2書34行)。ホラーティウスは、きちんと仕事に就くか、学業に励むかしないと、いたずらに恋に陥り、そのために嫉妬と不眠に陥ると戒めている。
典拠不記載:参照「影のように…いつもお前について行く」(quasi umbra… te semper sequi)(プラウトゥス✒『カスィーナ』93行)。美女カスィーナを手に入れようとある父子が競い合う。父は息子を妨害しようと自分の農園の管理者をローマに呼び寄せる。その管理者が当該の息子に言った言葉。ここには健在な妻をもつ父親が、息子に対して抱いた嫉妬心が反映している。
〖注解・比較〗
嫉妬:➽54番。
『書簡詩』:〔前20-10年頃〕2巻からなる書簡形式の詩。実質上は詩人自身の精神的自伝となっており、その内容は、詩的問題の欠点から広くは人間の生き方、文学論にまで及んでいる。これらの書簡の底流には、ストア哲学の知恵が流れている。
プラウトゥス:〔前254年頃-前184年〕ローマの喜劇作家。現存するのは21編の作品。それらの筋は、若者が女に恋にし、その恋の成就を妨げるさまざまな障害を乗り越えて、最終的に恋が実るというもの。この過程でローマの下流・中流社会の日常生活のあり方が色濃く反映する。卑近な日常性が色濃いため、プラウトゥスは中世ではテレンティウス[➽21番]よりも低い評価であったが、16-17世紀にはその評価が一転し、非常によく読まれ、その翻案も多く書かれた。
嫉妬:「春ごとに 心をしむる 花の枝に たがなほざりの 袖かふれつる」(新古今和歌集 大弐三位 0049)。「来る春ごとに、私の心を占領していたあなた[藤原定頼]の[、その]庭の梅の花の枝に、どういう人[私以外の女性]が立ち寄って、かりそめに[枝にその女性の]袖を触れたのですか。この花はその移り香になっていますよ」(窪田空穂)。これまで三位のもとに通っていた定頼はしばらく足が遠のいた。再び、三位のもとに行こうとするが、三位は嫉妬心から会おうとしない。そして定頼から歌が梅の枝とともに送られてくるが、その枝には、別な女性の香の匂いがついているではないかと指摘する。嫉妬に加えて、他の女に溺れていることへの恨みまでこもっている。
