◇愛のエンブレム◇ 105

Horat. NEMO ADEO FERVS EST, QVI NON MITESCERE POSSIT.
En, strictum Martis manibus puer eripit ensem,
Et sua bellacem vincla subire iubet.
Nemo adeò ferus est, qui non mitescere discat,
Cùm sua trans fibras spicula iecit Amor.
ホラーティウス 粗暴な人間であっても、おとなしくなれないような人はいない。
ほら、子供のアモルが軍神マルスの抜き身の剣を素手で奪い、
好戦的なこの輩に、鎖につながれるように命じている。
柔和を知らない人であっても、アモルが皮膚にその矢を
ぐさりとさせば、おとなしくなれないような人はいない。
愛は怒る者をなだめる
アモルは、剣をマルスの手からもぎとって、
どんなにすざまじくマルスが怒っても、すぐにその怒りを静める。
このことからわかるように、愛は争いよりも力があり、
荒々しく図体の大きな者も、愛によっておとなしくなる。
❁図絵❁
アモルは、ローマの軍人の姿をし、ひげを生やした軍神マルスから抜き身の剣を力づくで奪おうとしている。道をずんずん進んできたマルスの胸には、アモルの矢が刺さっている。マルスは悩ましそうにアモルを見ながらも、いまだに剣も盾も手放していない。
❁参考図❁

ヨアヒム・ウィテヴァール(Joachim Anthonisz Wtewael)「神々に発見されるマルス神とウェヌス女神」 1603-04年
ウェヌス女神は夫ウルカーヌスの目を盗んで、愛するマルス軍神[➽12番]と密会をする。この絵では、二人が寝ているベッドのカーテンをアモルとアポッロー神が持ち上げて、二人の密会場面が暴露する。この事態に呆然としているマルスに、密会を知ったウルカーヌスが鎖を投げようとしている。周りでは神々が密会露見を見て笑い転げている。このように、かつて剣を振るい恐れを知らなかった戦いの神マルスでさえも、アモルの放つ愛の力の前では無力となり、愛に囚われた姿を晒すことになったのである。しかもそれが周りには、転落した勇猛と剥ぎ取られた威厳として映り、滑稽に見えてしまう例証となっている。
〖典拠:銘題・解説詩〗
ホラーティウス:[➽21番]『書簡詩』✒1巻1歌39行。ホラーティウスはここで、叙情詩を書くのをやめ、かわりにこれまで蓄えた知識を利用して日常生活を適切に送るための思想を模索することを宣言する。人間は、貪欲、野心、嫉妬といった日常よくみられる悪徳から、哲学的な考え方を教える言葉によって解放されうるのだと、この詩人は述べている。そういう悪徳に染まったどんな粗暴な人間も、哲学的言葉にじっくりと耳を傾けるなら、悪徳を避けられるようになる。フェーンは、引用の「粗暴な人間」を野卑で荒々しい人間にすりかえ、美徳を備えうる「おとなしい人間」を愛によって荒々しさがなくなった人間に読み替えている。
典拠不記載:
〖注解〗
『書簡詩』:ホラーティウスが実在の人物に宛てて韻文で書いた書簡(全2巻)で、日常生活に関わる道徳について会話調で説いている。ここでは真に愛するに値するのは美徳だと教えている。なお第2巻は長文の詩論になっている。
▶比較◀
軍神:「有繋に悍き武夫も、恋には脆き人情」(南総里見八犬伝 巻之4第7)。「いかに士魂のすぐれた武夫でも恋の道はまた別というのか」(白井喬二訳)。神余家の家臣であった金碗孝吉は、浪人となったあと、百姓一作の元に身を寄せた。孝吉は一作の娘・濃萩と恋仲に落ち、子を孕ませてしまう。それに動揺した孝吉は一作の元を去るが、後に戦で勇猛な働きをし、名をはせることになる。これは、勇猛な武士であっても、恋の力の前には脆く、恩を仇で返す不義理となることがわかっていても、その情動に突き動かされることを示している。
