◇愛のエンブレム◇ 24

Senec. QVID SENTIAM OSTENDERE MALIM QVAM LOQVI.
Transfixum cor Amor clam testificatur amicae:
Nam voce effectus plùs in amore valet.
Irrita verba volant, & ijs falluntur amantes
Saepiùs, at re ipsa ritè probatur Amor.
セネカ✒ 感じていることを語るよりも、行動で示すほうを、私はとりたい。
刺し貫かれた心臓をアモルは恋人に向かってこっそりと示す。
なぜなら愛では、言葉よりも行為のほうがずっと力があるからだ。
言葉は実行されずに飛んでいき、恋する者たちは言葉にずいぶんよく
欺かれるが、そもそも愛は、行いそのものによって正しく証かされるのだ。
言葉より行ないが決定的
愛とは、甘い言葉で語れるものというより、
まさに行ないで示されるもの。甘い言葉の値打ちなど風にすぎない。
言葉は耳をうっとりさせても、真意を開陳してはいない。
そう、心をうちあける愛には、偽りがないのだ。
❁図絵❁
身なりも正しく、髪をきちんと編んだ女性が木陰に座っている。その女性が身を少しかがめてじっと見つめているのは、二本の矢でX字型(紋章学用語で<サルティア> saltire)に射抜かれた心臓というエンブレムである。アモルが差し出す巻紙に描かれているこのエンブレムは、愛の独自の掟(言葉よりも真意)を教えている。なお17番の図絵と同様に、女性が腰かける樹木は楡で、そこにからまるのはツタで、このペアは結婚・結婚愛を象徴している。
❁参考図❁


「心臓の捧げ物」(全体, 部分)1400-1410年頃(綴織壁掛け ルーブル美術館 蔵)
豪華な衣装をまとった一組の男女がウサギ(多産の象徴)が遊ぶ庭園の中にいる。男性は右手の親指と人差し指の間に<心臓>を挟み、視線をうつむき加減にそらす慎み深い女性に向かって差し出そうとしている。女性が手にとまらせているのは、ハヤブサで、紋章としてはプランタジネット家をあらわす。
〖典拠:銘題・解説詩〗
セネカ:[➽世番]「もしできることならば、自分が思っていることを、語るよりは示したい」(『道徳書簡』第75書簡2節[➽5番])。セネカは、手紙の文体が会話調になっているが、それは粗雑に書きたいからではなく、修辞を交えずにざっくばらんに自然に語り自分の真意を「示したい」からだという。したがって、ここでの「示す」とは、口で語ったことを行動によっても「示す」という有言実行をいっているのではない。
典拠不記載:参照 「アモルは私に 脅かしではなく/鉄でも鋼でもない矢を放った。/……この矢は/目を通って心臓まで達していた」(『薔薇物語』✒ 見目誠 訳1739-45行)。「最初の一撃で、私の心臓は刺し貫かれたようで、感覚という感覚がどこかにいってしまったようだった」(聖ビルギッタ『啓示』✒ [ラテン語訳出版1492年]4巻70章)。
〖注解・比較〗
『薔薇物語』:愛とはどのような心構えと作法が必要かを描いた13世紀のフランスの作品。ギヨーム・ド・ロリスが1230年頃に書いたもの(全4058行)に、後の1275年頃にジャン・ド・マンが加筆(全17724行)して一つの作品となった。ロリスは肉欲を昇華させた精神的な愛の男女関係を中心に据え、囲われた庭のなかで、男性が礼節と美徳により薔薇という女性性を手に入れて、歓喜に浸りうる姿を描いた。マンの続編では、肉体的愛を含めた愛全般について、愛の様々な特質が哲学的にまた官能的に語られている。この作品は、フランスではもちろんのこと、イングランドでも、愛を考え語る際の定番となっていた。
『啓示』:スウェーデンの守護聖人ビルギッタが、自らの霊的な幻視体験をつづったもの。この体験において、聖母がイエスの磔刑場面を詳述する声をビルギッタは聞き、さらに裸体のイエスが槍で刺されるその瞬間を目撃してしまう。槍の一撃が加えられた瞬間に、聖女は自分の心臓が刺し貫かれたような体験をする。したがって『啓示』では刺された心臓とは宗教的受苦の象徴だが、このエンブレム集では恋愛に射抜かれた心の疼きである。人間の側の神に対する心底からの愛が重要な概念となるのは、本書の続編ともいうべき『聖愛のエンブレム集』(1615年)においてである。人間と神との間の愛を主題は、17世紀にはエンブレム集の一ジャンルとみなしうるほど大きな位置を占めるようになる。
行動で示す:「ことならば 思はずとやは 言ひはてぬ なぞ世の中の 玉襷なる」(古今和歌集 1037)。「このように私に会ってくれない貴女なら、私のことを何とも思っていないとはっきり言ってくれたらいいのに。どうして僕たちの仲は思い通りに運ばないのだろう」。貴女が私に会ってくれないという振る舞いだけではなく、言葉の上でもはっきりと嫌だと私にいってくれないと、まだ芽があると私はついつい思ってしまい、貴女への好意を捨てきれない。愛の駆け引きにおいては、振る舞いだけでは不十分で、やはり言葉も必要なのだ。なお、玉襷の玉は美称。襷は背中で肩から十字に掛ける紐のかけ方で、行き違いをあらわしている。
