◇愛のエンブレム◇ 17

VIRTVTIS RADIX AMOR.
Plato. Anima immersa corpori, Amoris expergiscitur stimulis: &
hinc primi ad honesta impetus capiuntur.
Cic. Sine studio & ardore quodam Amoris in vita nihil quidquam fit egregium.
徳✒の根源は<愛>である。
プラトン 肉体にに内包されている魂は、<愛>の刺激によって覚醒する。そして、
ここから起こる最初の衝動が立派な行いへと向かわせる。
キケロー 人生において、<愛>へのなんらかの熱意と熱望がなければ、並外れたものはけっして生まれない。
愛は徳のもと
愛ゆえに始めたことでないなら、それはなによりも優れた
値打ちある行ないの高みには、到達しなかったであろう。
愛が勝利をおさめると、ほかのいくつもの勝利を得たことになるのだ。
もとをただせば愛が産んだ徳があって、初めて数々の勝利は生まれたのだから。
❁図絵❁
あごひげを生やしギリシア人風の英雄ヘルクレース✒が、水蛇ヒュドラ✒を両脚で挟みこみ、棍棒で水蛇の脚が動かないように押さえつけている。この水蛇は、英雄に向かってすでに矢を放ちまたこれからさらに矢を射ようとするアモルを観察している。美徳とりわけ剛毅と怪力の権化とされる英雄の胸にはすでに矢が刺ささり、英雄は水蛇と同様にアモルを観察している。ただし英雄は、アモルが射る次の矢を避けようとする様子もなければ、刺さった矢への痛みも感じていないようである。なおこの図絵の樹木は楡で、そこにからまっているのはツタで、このペアは結婚ないしは結婚愛を象徴している。
❁参考図❁

ピエール・ボナコルシ (Pier Bonacolsi)「ヘルクレースとヒュドラ」1490年代
ヘルクレースがヒュドラの一首をつかみ棍棒でたたき切断しようとしている。多首の根には、ルネッサンス期の慣例に従って人顔がついている。ヘルクレースは裸体で戦っており、衣服とともに弓と矢も木に掛けてある。矢はヒュドラには通用しないようだ。
〖典拠:銘題・解説詩〗
プラトン:[➽9番]出典未詳。参照「こうした人への愛は私を決して卑しいことへと駆り立てないのです。」(『饗宴あるいは愛について』211B-C。マルシーリオ・フィチーノ✒編訳『聖賢プラトンの全著作』1546年版435ページ)。
キケロー:[➽5番]『雄弁家論』✒ 1巻30章134節。雄弁家クラッススは、雄弁家になるためには、なりたいという熱意の他に、雄弁家になるための方法を知る必要があると教える。その際の出だしで、クラッススが「ではコッタ君、月並みを越えることを人生で成し遂げようとする場合に、そのことに対する熱意と熱烈な愛の他に、人間に何が必要だと思うかね」と問いかける。そこでは偉業達成に重心があり、また成し遂げる目標への愛が肝心ということであって、その愛はフィーンがここで述べる異性に対する愛に限定されない。
〖注解・比較〗
徳:ラテン語ウィルトゥース(virtus) は、真の男として持っている特質をさし、美徳、勇気、腕力、武力という意味まで含んでおり、ルネッサンス期の英語 (virtue) でもこの意味は生きていた。
ヘルクレース:肉体的な力と精神的な徳の権化として特にルネッサンス期のイタリアで人気の高かった英雄。一時的に狂気にかられ自分の子どもたちを殺害したために、その償いとして十二の難行を言い渡されるが、それらすべてを見事に達成する。
水蛇ヒュドラ:水蛇退治は十二の難行のひとつ。多頭の水蛇ヒュドラの頭をヘルクレースが棍棒でたたき、頭を切断するが、切られるとその切り口からまた頭が生えてくる。そこで英雄は、切口を松明で焼き、生えないようにした。
マルシーリオ・フィチーノ:〔1433年-1499年〕フィレンツェの哲学者で、同地の富豪コージモ・デ・メディチの庇護により、当時、次々と発見された古代哲学(ギリシア・ローマの古典を包含したさらに広域の古い時代に渡る哲学)の写本を読み、古代哲学研究の権威となる。業績の中でも、プラトンの翻訳である『聖賢プラトンの全著作』(実際には彼自身の抄訳であって、忠実な翻訳になっていない)は、19世紀に至るまでプラトン的世界観理解に深い影響を与え、また数多くの芸術家の霊感の支えとなった。
『雄弁家論』:修辞理論について、キケローの著作のなかでももっとも精密な議論が、対話形式で展開されている。
立派な行い:「めづらしと 我が思ふ君は 秋山の 初黄葉に 似てこそありけれ」(長忌寸娘 『万葉集』 巻8 1584 雑歌)「お立派であると私がお思い申して居りますあなた様は、秋の山の初紅葉に似ていらっしゃることであります」(佐佐木信綱 訳)。橘奈良麻呂の邸で催された宴席で詠まれた歌。歌主は、久米女王に仕える言葉の巧みな女性。この女性は、奈良麻呂を立派な人物と慕い、その姿は初々しく美しいと褒めている。奈良麻呂は、この歌の5年後757年に、当時の権力者の専横に義憤を感じ、権力者を抑えようと「橘奈良麻呂の乱」を起こす。ただしこの乱は未遂に終わり、その後に、獄死したといわれている。
