◇愛のエンブレム◇ 54

Virg.      AVDACES FORTVNA IVVAT.

Pellenti inuidiam sors auxiliatur Amori:

Audenti rerum nam alea fausta cadit.

Propert.    Quòd si deficiant vires, audacia certè,

Laus erit, in magnis & voluisse sat est. 

Ouid.      Audendum est: fortes audiuuat ipsa Venus.

ウェルギリウス     大胆な人に<運の女神>は加勢する。

  運は、嫉妬を追いはらうアモルに加勢する。

  物事に挑む人にはサイコロは幸運な目を出す。

プロペルティウス 力が足らなくとも、あえてやるならきっと

誉められるとはいえ、大きいことにあたるときには、やりたかったというだけで十分だ。

オウィディウス    あえてやらなくてはならない。強い者たちを、ウェヌス女神ご自身が加勢して下さる。

<運の女神>は勇敢な者の助太刀

 愛する者が、嫉妬、恥辱と勇敢に戦い、

臆病な恋人ではないことをはっきり証明するとき、

その交戦で助太刀となってくれるのは、<運の女神>。

女々しく愛するものは、美しい女性を手に入れることに値しないのだ。


❁図絵❁

 アモルと<運の女神>は、頭髪が蛇である<嫉妬>を追いはらっている。アモルは、弓と脚を使って力強く<嫉妬>を押しやり、海の女王でもある<運の女神>は両手で櫂を握りしめ、<嫉妬>の背中を強く押している。

❁参考図❁

ルカ・フェラーリ (Luca Ferrari)「嫉妬の寓意」1640年代

 アモルは、その矢を自分自身に向けて、愛に陥ったことをあらわし、同時に、嫉妬の頭を上から押さえつけて、その災禍が自分に及ばないよう配慮しているかのようである。当の<嫉妬>はアモルをじっと見つめている。<嫉妬>は足下に砂時計(時間の経過の象徴)と松明(愛から巻き起こる嫉妬心の象徴)をおき、恋人の動勢を逐一うかがうニワトリ(警戒の象徴)を抱いている。


〖典拠:銘題・解説詩〗
ウェルギリウス:[➽3番]『アエネーイス』10巻284行[➽15番]。アエネーアースらトローイア人はイタリア半島のラティヌムに定住しようとするが、ラティヌムの王女をめぐって、近隣に住むルトゥリー人の王トゥルヌスとの間に戦争が起こる。アエネーアースはトゥルヌスに敵対する近隣の部族から救援をえようと戦陣から一時的に離れると、その間にトローイア軍の形勢は悪くなる。しかし援軍をつれたアエネーアースが海上に現れると、トゥルヌス軍は一時的にひるむ。そのときトゥルヌスが自軍の士気を高めるために述べた言葉が、ここの銘題。実際の戦闘をフェーンは愛との戦いになぞらえている。なおこの銘題を裏切るかのように、この戦いでは、トゥルヌス軍はトローイア軍に破れてしまう。

プロペルティウス:『エレギーア』2巻10歌5-6行[➽14番]。この詩集は基本的には恋愛がテーマとなっているが、この10歌では、ローマの初代皇帝アウグストゥスが海外に出征する際に、プロペルティウス自身が従軍詩人となって、その戦功をたたえる役目を果たすことを宣言している。詩人の詩風が、繊細な叙情詩から勇猛な叙事詩へと乗り換える宣言なのだが、叙事詩人としての能力が自分に欠けているとしても、叙事詩を試みるその勇気だけでも賞賛に値するものとなると述べている。嫉妬を乗り越えて愛そうとすることも、賞賛に値するのだとフェーンは述べている。

オウィディウス:[➽世番]実際には、ティブッルス『エレギーア』1巻2歌16行[➽12番]。詩人は、デ-リアが夫によって家に閉じ込められてしまったので、まずは扉に向かって開けと懇願するが、それが受け入れられないとなると、デ-リアに向かって、ここの銘題にあるように、デーリア自身が、扉に対して扉が開くように扉に懇願せよという。なお、オウィディウスは『恋愛術』(1巻608行 [➽2番])のなかで、「大胆な者を、<運の女神>とウェヌス女神は助けるものだ」と述べている。

〖注解・比較〗
<運の女神>:[➽7番]フェーンでは、<運の女神>は善良な愛の助け手となっている。しかしラテン文学ではこの女神は人に対して熾烈な神としても意識されている。「残虐な仕打ちをしては楽しみ,不遜な戯れをしつこくやり続ける<運の女神>」(ホラーティウス[➽21番]『歌章』3巻29歌49-50行[➽116番])。
<嫉妬>:[➽26番]。

大胆:「住吉(すみのえ)の 津守(つもり)綱引(あびき)の 浮子(うけ)の緒の ()れか()なむ 恋ひつつあらずは」(万葉集 2646)。「住の江の津守が網引をするその網の浮標(うき)ではないが、自分はいっそ何処(どこ)かへ浮かれて行ってしまおうか。こうして(いたず)らに恋しくばかり思っていないで」(佐佐木信綱 訳)。浮かれて行ってしまうとは、水浸自殺すること。ここで開陳される大胆さは、困難を乗り越えてあえて相手をものにすることではなく、自ら命を絶つ踏ん切りのよさになっている。いうまでもないが、キリスト教では自殺は大罪。


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